岸・即陳!

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zoom RSS 多木(坂出高出)ら22人選出/日米大学野球代表 動画有り

<<   作成日時 : 2011/07/04 19:25   >>

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ちょいと大学野球の日本代表のメンバーを検索してみました。

九共大の大瀬良大地君なんかをね。

多木(坂出高出)ら22人選出/日米大学野球代表 | スポーツニュース ...

えっ?

坂出高校出の多木?

法政大野球部多木裕史

そんなイチロー選手みたいなエピソードがサッコーセーに?

えっ?

二宮清純氏?

詳細は『SPORTS COMMUNICATIONS - 多木裕史(法政大学野球部/香川県丸亀市出身 ...』を検索されて下さい。

まだ秋山さんには完敗やけど。

※『10.07.26 秋山拓巳(阪神)vs多木裕史(法大) 大学日本代表0-4NPB選抜』です。




『SPORTS COMMUNICATIONS - 多木裕史(法政大学野球部/香川県丸亀市出身 ...』

リンクできんかったし4つに分かれてたんで、そのままコピペします。

少し長いですが、ご勘弁願います。

『2009年6月、法政大学が全日本大学野球選手権を制し、14年ぶりに日本一の栄冠を手にした。富士大との決勝戦は7回まで相手エースにわずか1安打に抑えられたが、8回に犠牲フライで同点に追いつくと、9回には5安打4得点の固め打ち。一気に試合を引っくり返し、最後はエース二神一人(阪神)がきっちりと三者凡退に切ってとった。最後の打者の打球が中堅手のグラブに収まると、選手たちはマウンドへと一目散に駆け寄り、「No.1」ポーズで喜びを分かち合った。その最高の瞬間を、1年生では唯一グラウンドで迎えた選手がいた。多木裕史だ。四国・香川から上京して、まだ半年にも満たない19歳のルーキーはその年、鮮烈なデビューを果たしていた。

「奇跡ですよ」
 1年目の爆発的な活躍ぶりの要因を尋ねると、多木はそう言って少しはにかんだ笑顔を見せた。当時、法政大のレギュラーメンバーを見ると、そのほとんどが3、4年生で占められている。野手に限れば、多木以外は全員、上級生という中、彼は春のオープン戦終盤からレギュラーの座を確立した。春のリーグ戦では打率3割4分1厘、チーム最多の12打点をマークしてベストナインを受賞。その余勢を駆って出場した全日本選手権では準々決勝から3番を任せられ、準決勝では4打数4安打3打点の猛打賞を記録した。終わってみれば通算打率6割6分7厘をマークし、首位打者賞に輝いた。11月にはプロ野球のセ・パ誕生60周年記念として開催された交流戦で大学日本代表に選出され、U−26NPB選抜チームと対戦した。

 こうした華々しいデビューにも、彼は一切、浮き足立つことはない。
「自分は1年生でしたから、どのピッチャーも初めての対戦。甲子園に出場したわけでもありませんし、完全にノーマークだったんです。ピッチャーはみんな、『多木? 誰だよ?』となんとなく投げてきているような感じでした。だから、あんなに打つことができたんだと思います。自分自身もリーグ戦の戦い方もつかめていなかったし、手探り状態でやっているところはありました。気がついたらヒットを量産していましたが、自分ではそれほど手応えをつかんだという感じではなかったんです。もちろん、自信が全くなかったわけではありません。でも、まさかあそこまで打てるとは思ってもみませんでした」

 多木が最も印象に残っているのは、全日本選手権の準々決勝・関西国際大戦だ。前述した通りこの試合、彼は4打数4安打の猛打をふるった。初回に先制タイムリーを放つと、同点に追いつかれた3回には勝ち越しタイムリー。さらに5回にもタイムリーを放ち、結果的にこれが決勝点となった。大会を通して絶好調だった多木は、どんな球が来ても「打てる気しかしなかった」という。よくアスリートは「神がかっていた」「何かが降りてきた」と言うが、この時の多木もまた不思議な感覚をつかんでいた。
「どんなピッチャーが来ても、全く怖くなかった。とにかくバッターボックスに立つと、なぜか打てる気がしていたんです」

 その感覚は今もなお続いているという。1年秋は2割8分6厘、2年春は2割3分8厘、同秋は3割1分9厘。数字の上ではいずれも1年春を下回っているが、多木自身の中では決して調子は悪くない。バッターボックスに立てば、いつでもヒットを打つイメージは出来上がっているのだ。
「結果はあまり気にしない。自分自身で調子が悪くなかったら、結果がどうであれ、『いや、いい感じだ』と思って開き直ります」
 結果が出なければ、焦りが生じるものだが、多木にはそれがない。いや、決して見せない。自らを信じる強さ――。これこそが多木裕史という選手の核となっているに違いない。

 多木裕史は両親ともに高校の体育教諭というスポーツ一家に生まれた。父親は坂出高校の野球部監督でもある。そんな環境に生まれ育った多木が野球への道を進んだのはごく自然なことだったに違いない。小学1年からソフトボールを始めた彼は、父親の「そろそろ」というすすめもあり、小学4年から軟式野球チームに入った。そこで彼は“親友”に出会った。

「初めて軟式野球のチームに入ったときは、監督が怖かった(笑)。でも、とてもいい方だったんです。土日だけでしたけど、しっかりと練習するチームで、勝利の喜びを味わえた。そこでの野球がなかったら、僕はここまで来れていないと思います」
 全国大会を狙うような強豪では決してなかったが、多木にとっては充実した3年間だった。

 チームに入ったばかりの頃、多木は主にサードを守っていたが、類稀な運動神経と器用さを買われてのことだろう、ピッチャーやキャッチャー、時にはショートに入ることもあった。小学6年になると、主にキャッチャーを任された。エースは同級生の大坂誠。地元では名の通ったピッチャーだった。剛腕というよりは技巧派だった彼の最大の武器はコントロール。多木が構えるミットに、ほぼ正確にボールが収まった。2人は「親友」と呼べる仲だった。

 中学では2人はそれぞれの学校の野球部に入ったため、敵として対戦することもしばしばあった。「うちの学校は大坂によくやられていて、ほとんど負けていたと思います。でも僕としては絶対に負けたくない、負けられないと思っていましたよ」。心を許せる友だからこその本音だった。

 中学卒業後、多木は父親が監督を務める坂出高校に進学した。「特に理由はなかった」と語る多木だが、まだ一度も甲子園に出場していない同校を選んだ背景には、やはり父親と一緒に甲子園に行きたいという気持ちがあったようだ。普段は練習で夜遅く帰宅する父親だが、週末は夕方に帰宅することが多かった。そんな時、多木は父親から指導してもらうことができた。「いつかはお父さんと甲子園へ」。父親からアドバイスを受けるたびに、そんな思いを募らせたのかもしれない。

 父親のほかに多木にはもう一人、一緒に甲子園を目指したい人がいた。親友の大坂だった。大坂もまた多木と同じ高校を熱望し、坂出高への進学を決めた。父親と親友――最も信頼する2人が揃い、多木にとってはこれ以上ない環境で高校野球がスタートした。

 2007年7月、坂出高は甲子園初出場まであと一歩のところまで迫っていた。第89回全国高校野球選手権大会香川県予選準決勝。対戦相手は尽誠学園だった。春6回、夏9回の甲子園出場を誇り、夏は2度ベスト4に進出している県内屈指の強豪校だ。その年も好投手3人を擁し、優勝候補にあげられていた。

 多木は2年生ながらショートのレギュラーとなっていた。大坂もまた、エースナンバーを背負い、大黒柱としてチームを牽引していた。
「負けて当然。とにかく全力でぶつかっていこう」
 多木はそんな気持ちで試合に臨んだ。

 ところが、フタを開けてみると、試合の主導権を握ったのは坂出高の方だった。1、2回に2点ずつを挙げてリードを奪うと、一度は尽誠学園に同点に追いつかれたものの、8回に大量3点を奪った。その裏、1点は返されたが、2点リードで最終回。流れは完全に坂出高にあった。「よし、これで次は決勝や!」。多木はベンチを飛び出し、意気揚々とショートのポジションへとついた。しかし、それから数分後、彼は野球の怖さを知ることになる。

 多木裕史には今でも忘れられない試合がある。4年前の夏、坂出高校は初の甲子園出場まであと2勝と迫っていた。準決勝の尽誠学園戦も2点リードで最終回を迎え、いよいよ決勝へというところまできていた。1点を返されたものの、なんとか2死までこぎつけた。決勝まであとアウト一つ。ところが、そのアウト一つが坂出にはあまりにも遠かった。

「ずっと一人で投げ続けてきましたから、もう限界にきていたと思います」
 多木はそう言って、当時、エースだった同級生の大坂誠の様子を語った。県内屈指の強豪校相手に、あとアウト3つで決勝というところまでこぎつけた坂出高だったが、9回裏にエース大坂が相手打線につかまった。先頭打者に二塁打を打たれると、犠飛で1死三塁に。代打にタイムリーを打たれて1点を失った。なんとか次打者を打ち取って2死一塁としたが、ヒットと四球で満塁となってしまう。内野陣がマウンド上に集まり、エースを励ました。だが、大坂にもう余力は残ってはいなかった。

「その試合は、気力だけで投げていました。疲労がたまっていて、正直投げられる状態ではなかったんです。試合前には多木が先発という話もありました。でも、3年生のキャプテンが『悔いを残したくないから』と言って、僕の登板を推してくれたんです。でも、ほとんど試合の内容を覚えていないくらい頭が朦朧としていました」と大坂は振り返った。

 マウンドに駆けつけた時、肩で激しく息をする大坂の姿を見て、多木は彼が限界に来ていることが手に取るようにわかった。しかし、多木を含め、チーム全員が他のピッチャーに代えようとは思っていなかった。「最後は大坂で」。エースに全てを委ね、各ポジションに散った。
「あと少しや。頑張れよ」「OKやで」
 多木の激励に大坂は笑顔で返した。しかし、大坂の球に勢いが戻ることはなかった。

「カキーン!」
 渇いた金属音とともに打球が三遊間の上空を飛んでいった。三塁ランナーが返り、同点となる。だが、この時点で多木も大坂も諦めてはいなかった。一気に三塁をまわり、サヨナラを狙う二塁ランナーをホームで殺せるかもしれないと思ったからだ。しかし、そのわずかな可能性も次の瞬間に潰えた。左翼手が打球をジャックルしてしまったのだ。ボールが返ってきたときにはもう二塁ランナーがホームベースを踏んだ後だった。
「野球は9回2死から」
 多木は身を持ってこの言葉の意味を知った。

 喜びを爆発させる相手チームとは裏腹に、その場で坂出高ナインは崩れ落ちた。その様子を見て大坂は「自分のせいで負けた」と自責の念にかられていた。茫然と立ち尽くす大坂に多木は何も言葉をかけることができなかった。結局、その日、2人はひと言も言葉を交わさないまま別れた。しかし、思いは一緒だった。
「次こそ、甲子園に行ってやる!」

 新チームのメンバーは個性の強い選手が多く、多木の言葉を借りれば、まとまりには欠けていた。だが、甲子園を狙えるだけのメンバーが揃っていた。多木には自信があった。
最後の夏、坂出高は初戦、10−0と5回コールド勝ちと幸先のよいスタートを切った。多木も高校通算36本目となるスリーランを放ち、調子の良さをうかがわせた。一方、大坂も4回を無安打に抑える好投を披露した。しかし、決して本調子ではなかった。春に痛めた手首が完治しておらず、自分のピッチングができていなかったのだ。

 そして迎えた3回戦。相手は2回戦で尽誠学園に快勝した高松商だった。初回、坂出高は相手ピッチャーの立ち上がりを攻め、3点を奪った。これで試合の主導権を握ったかに思われたが、3回裏に痛恨のミスが出るなど、一挙3点を失い、同点に追いつかれた。さらに4回裏にも2点を奪われ、逆転を許してしまう。坂出高はここで大坂から多木にリリーフした。
「ごめん」
 大坂は小さくつぶやいて多木にボールを手渡し、一塁へと向かった。

 大坂の後を受けた多木は、後続を抑え、5回裏も無失点に封じた。しかし6回裏には押し出し四球などで2点を失い、その差を4点と広げられた。さらにアクシデントが多木を襲った。7回表の打席後、右足が痙攣し始めたのだ。医務室で体温を測ると39度近くの高熱があった。熱中症だった。しかし、投げられるのは自分しかいないことはわかっていた。

 試合に戻ろうとすると、「熱が下がるまではダメです」と止められた。いくら多木が懇願しても医者は首を縦に振らなかった。とにかく熱を下げることが先決だった。全身を冷やすこと約30分、なんとか微熱程度にまで下がり、多木は再びマウンドに上がった。炎天下、チームメイトも観客もじっと待ってくれていた。そんな彼らに何としても応えたかったのだろう。暑さと疲労で、ほとんど自分のピッチングはできなかったが、最後の力を振り絞り、7、8回を無失点に抑えてみせた。

 そして9回表、坂出高は一人もランナーを出すことができないまま、2死となった。打席に向かったのは多木だった。
「とにかく自分のスイングをしよう」
 そう思い、バッターボックスに立った。結果はファーストゴロ。多木は最後のバッターとなった。
「本当にアッという間の3年間でした。僕にとっての高校野球は楽しかったです」
 結局、一度も甲子園に出場することは叶わなかったが、多木の心はやり尽した達成感、充実感に溢れていた。

 大学生活も2年が過ぎようとしている。4月から3年生になる多木裕史は上級生だ。これまでとは違い、主戦としての活躍、結果を当然のように求められる。そのことを多木自身も十分に理解しているようだ。
「本当にあっという間の2年間でした。いろいろな経験をさせてもらったので、それを活かしてチームを引っ張っていけたらと思っています」
 表情はクールだが、胸に秘めているものはあるようだ。

 大学1年生で鮮烈なデビューを果たし、法政大学の不動のレギュラーとなった多木に対し、2年生になると相手ピッチャーの攻め方は厳しくなった。1年生の時とは配球の組み立てがガラリと変わったという。その結果、春は打率2割3分8厘に終わった。しかし、多木に迷いはなかった。

「結果はあまり気にしていないんです。結果がどうであれ、自分自身で納得したバッティングができているかどうか。だからヒットが出ていなくても『いや、いい感じだ』と思って開き直っていました」
 その言葉通り、秋は打率3割1分9厘をマーク。再び存在感を示した。

 今や大学球界を代表とする内野手となった多木は、日本代表でも常連となりつつある。初めて日の丸を背負ったのは大学1年の11月。NPBのセ・パ誕生60周年記念のイベントとして開催された「U−26NPB選抜vs.大学日本代表」だ。対戦したピッチャーの中には、昨季沢村賞に輝いた前田健太(広島)もいた。

「前田投手は一番印象に残っています。とにかく球が速くてコントロールもよかった。テレビで見ていた通りのすごいピッチャーでした」
 他のピッチャーも「さすがプロ。自分との差を感じた」という多木だが、それは決して埋められないものではないとも思っようだ。「慣れもあると思います」。その言葉に彼の自信の大きさが伺えた。

 その自信はテレビで観戦していた親友の大坂誠にも感じられたようだ。
「体がひとまわり大きくなったように見えましたね。プレー自体はそれほど変化はなかったように思いました。高校時代から際どいコースに投げてもファウルしてかわし、決して甘い球は見逃さないようなバッターでしたから。でも高校とは違うすごさがあった。オーラみたいなのが感じられたんです」

 昨夏は世界大学野球選手権にも出場した。多木にとってはこれが初めての国際大会。衝撃を受けたのはキューバだった。
「同じ大学生なのに、レベルが全く違いました。スイングスピードと体の強さは僕らとは比較にならなかった。とにかく圧倒されましたね。対戦していて、楽しくも何ともなかったです」
 自分のパワー不足をまざまざと感じさせられた試合だった。この経験がどう活かされていくのか。それは多木次第だといえるだろう。

 今後、目指すのは打席でオーラを放てるバッターだ。
「存在だけで怖がられる選手になりたい。打席で立っているだけで、打ってきそうな雰囲気を醸し出せるバッターになりたいですね」
 最終目標はもちろんプロだが、まだ具体的なイメージは湧いてきていない。まずは目の前に迫りつつあるリーグ戦を見据え、2年時で減少した打点アップを狙う。そのためには調子をいかにキープできるかが重要だと考えている。
「トーナメントの高校時代とは違い、大学でのシーズンは2カ月間という長丁場。その間に調子を崩してしまったら終わりなので、自分のバッティングを上げようとするのではなく、いかにキープできるかが大事になってくると思います」
 多木の挑戦はこれからが本場。2年後の秋、プロへの道を切り拓くために――。

(おわり)

<多木裕史(たき・ひろし)>
1990年5月12日、香川県丸亀市生まれ。小学4年から軟式野球をはじめ、高校は父親が監督を務める坂出高に進学。遊撃手兼投手として活躍し、2年時には県大会準決勝に進出した。法政大では1年春からレギュラーを獲得し、打率3割4分1厘、チーム最多の12打点をマーク。ベストナインにも選ばれた。さらに全日本大学選手権では打率6割6分7厘をマークし、首位打者賞を獲得。同大14年ぶりの日本一に大きく貢献した。177センチ、74キロ。右投左打。』


第38回日米大学野球選手権大会(日本代表)〜神宮への道〜

まだ3回生だから、大丈夫。

陰ながら応援するね。

※ところで大坂君は何処行ったん?

see you(^^)w




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